驚いて、一瞬息の仕方すら忘れた。すぐ目の前には不機嫌そうなクラピカの顔がある。その近さに焦って身を引こうとしたが、ただ壁に背が当たるだけという結果に終わった。そこでやっと逃げ場がないことを悟った。そして私をその状況に追い込んでいるのがクラピカだということも。

「ク、クラピカ?」
「……」
「え、あの……もしかして怒ってるの?」

返事はない。しかし、クラピカは確実に怒っている。何故だか分からないが、怒りの対象が私だということはもちろんわかった。彼の目にはじっとりとした熱が宿っている。それが、私を抉る。クラピカは「逃がさない」とでも言うかのように私の顔の直ぐ横に片手をつき、何かを視線で訴えるだけで、唇は真一文字に結んでいた。
一体、私は彼に何をしたんだっけ?
必死になって自分を省みてみるが理由はすぐにはわからなかった。落ち着け。まず落ち着いて、さっきまで自分が何をしていたのか思い出すんだ。……確か、そう、私はたいした意味もなく、クラピカの容姿についてコメントしていた。美人だとか、中性的だとか。たまに女の子に見えるとか。あ、そうだ、色々言ったその挙句「クラピカって実は女の子?」と冗談交じりに言ったんだ。その直後、こんなことになったんだ。それは私にとって100パーセント戯言で、本気で思っていたわけじゃないが、軽い一言が彼を怒らせてしまったのだろう。つまり完全に悪いのは私のほうだ。

「ごめん」

理解したから、素直に謝った。しかしクラピカは何も聞こえていないかのようにまだじっと私を見ていた。だが恐らく私の言葉は届いていただろう。彼の目の中にあった熱が少しばかり和らいだ気がしたからだ。だが、私を解放するには十分じゃなかったらしい。
それにしても近い。ドラマや少女漫画でよくあるシチュエーションだが、実際に自分が体験することになるとは思わなかった。しかも相手がクラピカなんて。急に恥ずかしくなって、私は苦し紛れの言葉を発した。

「謝るから、ちょっと離れて欲しいんですが」

それでもクラピカは動こうとしなかった。今回彼を怒らせてしまったのは私の方だから、ここで蹴りを繰り出したり拳を振り上げることは出来ない。ただじっと祈って、待った。




どの位過ぎただろう。
長く続く生殺しの状況のせいで目の前がチカチカとしてきた。酸素が薄いような気がするが、実際は私が上手く息が出来なくなっているだけだろう。段々と精神的に追い詰められていく私をクラピカは冷静に見ていた。その真っ直ぐな目が憎らしくなってくるほどに。しかももっと嫌なのは、焦りと恥を募らせる私を見下ろすクラピカに、少し楽しんでいるような気色がうかがえたことだ。
ついにしびれを切らせた私は、結局逆ギレして大声を上げてしまった。

「あーもう、ごめんって! 本当にごめん! もう許してよ!」

クラピカはわずかに眉を動かした。

「……何が、ごめんなんだ?」

やっと聞くことが出来たクラピカの言葉は、親や先生が子供にするような質問だった。けれど、やっと声を発してくれた。早くこの状況を打開しようと私は慎重に答えた。

「実は女の子なんじゃないかって言ったこと」
「……」

するとクラピカはまた黙ってしまった。何も言わずに、私の顔の直ぐ隣についていた手を私の肩に置く。真意がうかがえずに自分の肩とクラピカの顔を交互に見る私。そんな私にクラピカは静かに尋ねた。静かではあるが、その語調にはしっかりとした力がこもっている。

「お前はずっと私のことを、「実は女なんじゃないか」と思っていたのか」
「へ?」
「どうなんだ」

どうなんだ、って。私は答えかねて眉根を寄せた。そんな私の態度をどうとったのか、クラピカはこう続けた。

「もしそう思っていたのなら今直ぐに改めろ」

そして肩に置いている手に少し力をこめる。

「今後私をそんなふうに見ることは一切許さない」

いや、思っていない。クラピカの性別を疑ったことは一度もないって。弁解しようと口を開こうとした、だが、それよりも早く、唇にあたたかいものが触れた。
驚きに目を見開く。
気が付けばクラピカと私の距離はほとんどゼロに等しくなっていて、私の本当に直ぐ目の前に彼の顔があった。近いなんてものじゃない。わけがわからなすぎて、意識にもやがかかって、そのうち至近距離の彼の顔すら見えなくなってしまった。
ただ馬鹿みたいに顔が熱いことだけがはっきりとわかった。




次に視界がクリアになったときは、クラピカはもう私から1メートル以上の距離をとっていた。しかも彼は唇の辺りに手をやって、うっすらと顔を赤らめている。

「な、なんでクラピカが照れてるの?」
「う、うるさい」

どもるなんて珍しい。そんなことを頭の片隅で感じながら、私は壁に寄りかかるようにしてずるずると床に座り込んだ。下を向き、いまだにカッカとしている頬の辺りを押さえる。
嫌じゃなかった。全然、嫌じゃなかった。いきなりすぎる行為は私を混乱におとしいれたが、それでも嫌悪は全く感じなかった。クラピカは何を思って、どんな目的で私にこんなことをしたのだろう。そこまで推理する能力が、私にはない。
とりあえず、弁解だけはしておこう、と私は沈黙を破った。

「……私は、クラピカを女の子だと思ったことは一度もないよ」

クラピカが動くのが気配で感じられた。しかしまだ顔を上げる勇気がなかった。

「さっきのは、ほんの冗談。その場のノリで言っただけだった」

私の声が情けなく響く。しばらくの静寂の後、クラピカはぽつりと「そう、か……」と言った。そしてそのまま、また口を閉ざす。
時間の経過によって段々といつもの調子を取り戻してきた私は、やっと顔を上げて彼を見上げた。その頬はまだ微かに赤い。

「で、なんで私にあんなことしたの?」
「それは」
「なに?」
「……」

だんまりを決め込むクラピカ。これはもう、答えがかえってくることは期待できないだろう。普段なら問い詰めるようなことはしないのだが、今回ばかりはそんなわけにもいかない。私は立ち上がり、真っ直ぐクラピカに近づいた。少し戸惑った顔をする彼の肩をガシッと掴み、くるりと半周回る。さっきまで私が押し付けられていた壁にクラピカを押し当て、その顔の横に手をついた。彼がそうしていたように。

「答えてよ」
「……断る」

私は直ぐ近くからじっとクラピカの目を見た。

「答えないなら、さっきクラピカがしたことと同じことをする」

クラピカは流石に動揺したようだった。さあ、とっとと白状してしまえ。内心でそう思っていると、クラピカは急に態度を変えて、私と目を合わせ、こういってのけた。

「やってみろ」

今度は私が狼狽する番だった。

この攻防、どうやらもっと長く続きそうだ。





2009