緊急事態
紫義が倒れる瞬間、は何が起こったのかとっさに把握できなかった。まず紫義という人が突然倒れるなんてことが彼女にとってありえないことだったのだ。何度か瞬きをし、「え?」と短く困惑の声を上げる。首を軽く左右に振ってやっとこれが現実だと認めることができたとき、既に修羅は、地に横たわって苦しげにもなんとか息をする紫義にすがって必死で声をかけていた。
「し、紫義さま!」
もあわててしゃがみこんで紫義の額に手を当てる。熱い。熱の固まりがそこにある。そうやって彼が何らかの病であることを確認したが、彼女の思考はそこからなかなか動けなかった。
「、どうしよう」
焦ったような修羅の声に駆り立てられて必死に頭を動かそうとするが、できない。考えはすべてまとまらずに四散してしまう。表には現さないものの、このときのはかつてないほど混乱していた。
そんなときに彼女たちに助け船を出したのは、なんと捕虜の身である異界の少女・麻理子だった。
「とにかく、寝かせられるところに運ばないと。さん、手伝って!」
「へ?」
「紫義を運ぶの!」
「あ、は、はい!」
は言われるままに紫義の上半身を支えた。そうやって二人がかりで紫義の体を持ち上げ、寝台に運ぶ。次に麻理子は修羅に誰か他の人間を呼ぶように言った。
「今は全員出てて俺たちしかいないよ」
「じゃあ水を持ってきてくれる?」
「うん、わかった」
てきぱきと指示を出す麻理子を、は呆然と眺める。この少女は捕虜だったはずだ。そして今は脱出できる絶好の機会だろう。なのにどうして彼女は逃げるどころかあわてて何もできない自分たちに手を貸してくれているのだろう?
「ん……なにこれ、どうやって外すの?」
気がつくと、麻理子は紫義の鎧に手を伸ばして試行錯誤していた。どうやら脱がそうとしているらしい。は一瞬その行動が理解できずに焦ったが、すぐ看病につながるのだと察すると、麻理子に手を貸した。
「これは、こう引っかかってるから、逆に押して、外すんです」
「あ、ほんとだ。面倒くさいの着てるんだなあ」
あんまり緊張感のない麻理子の声には少し安心した。紫義はそこまで重病なわけではないらしい。
「脱がしてどうするんです?」
「汗を拭くのよ」
何でもないことのように言って、を見つめる。
「看病とかしたことないの?」
「あまり……」
なんだか恥ずかしくなったので、は「布をとってきます」と言って半ば逃げるようにその場を離れた。そして汗を拭くものを持って紫義と麻理子の元に戻ると、紫義は前がはだけた状態にされていた。その光景を見たはまるで不意に顔面を一発殴られたかのように動揺し、立ち尽くす。
「ちょ、ちょちょちょちょっとそこまで脱がすの!? いいんですか、これ! まずくないですかこれ!?」
「な、なに慌ててるのよ! これは看病! 看病なんだから!」
「そりゃ、そそそうなんですけど、でもっ、まずい。まずいよこれは」
すっかり上気して顔を赤らめているに、麻理子は何か悟ったような笑みを浮かべた。
「ふーん、もしかしてもしかしなくとも」
「な、なんですか」
なんとなく恐怖を覚えながらも、はなんとか足を動かして紫義に近づき、麻理子に布を手渡そうとした。
「好きなの?」
「な、……なんてことを、言うんですか!」
条件反射の勢いで、は手渡そうとした布を投げつけてしまった。麻理子はそれを額にくらって驚きの声を上げる。我に返ったはまだ顔を真っ赤にさせながら謝った。
「ご、ごめん」
「そんなに動揺しなくてもいいじゃない」
どこか楽しそうな麻理子。別にそういうわけじゃない、とが言い返そうとしたとき、彼女は視界の端で紫義が薄く目を開けるのを察知した。起きあがろうとする彼を押さえ、必死の様子で声をかける。
「し、紫義さま! 大丈夫ですから寝ててください!」
「……? 何を、しているんです?」
「え。あ、えっと、その」
再び混乱し、は予期せずして熱い物にふれたかのような動きで紫義の肩から手を離す。すっかりたじたじ状態である。その隣で麻理子が彼に聞き取りやすいようにゆっくりと話しかけた。
「覚えてるかわからないけど、あなたは熱を出して倒れたの。とりあえず汗を拭くけど、誤解しないでよね」
は息を詰めて二人を見守る。紫義はまた目を閉じて微かにうなずいた。
「じゃあ、拭こ」
は何も言わず、代わりに何度か首を縦に振った。必死の面もちで、そしてとても大事な物を扱うようにして、紫義の首の汗を拭う。彼女は、たぶんここ数年で一番の集中力を発揮していた。いつの間にか息をするのを忘れていたくらいだ。
「……麻理子」
「なに?」
「紫義さま、大丈夫? こうして拭いていれば治るんですか?」
迷子になった子供のような表情をする。麻理子は少し意外に思った。こんな顔をする人なのか、と。
「たぶん、大丈夫だと思う」
「――ありがとう。私と修羅だけだったら、たぶん紫義さまに死ぬような思いをさせてしまっていたと思う」
いくらか落ち着きを取り戻したらしい。まるで自分も病魔と闘っているかのように苦しそうな様子のに、麻理子は尋ねた。
「ええと、大切……に思ってるの?」
なんだか言うのも気恥ずかしい。麻理子は自らの歯切れの悪さを感じた。対するはやはり一生懸命紫義の汗を拭いながら、真面目そのものの声で返事をする。
「はい。尊敬している人です。……修羅にとっても」
麻理子は複雑な気持ちになった。ひと段落ついた今、よくよく考え直してみれば、紫義に修羅、は自分を捕らえたいわば敵側の人々である。そのはずなのに、彼らの様子を見ていると悪には見えないのだ。修羅とは紫義を大事に思っている。紫義は二人をどう思っているかよくわからないけれど。
ごちゃごちゃと考えていると訳が分からなくなってきて、とりあえず紫義の看病に集中しようと、麻理子は手元に目を戻す。そこで改めて自分の目の前に横たわっている紫義が男であることを再自覚し、なんだか妙な気持ちになった。
「……」
「麻理子?」
手を止めて何ともいえない表情をしている麻理子に声をかける。名前を呼ばれてハッとした彼女は、取り繕うように笑みを浮かべて作業を再開しようとする。しかし一度意識してしまったせいか、気持ちがどこか浮ついてしまう。
「(看病! さんにも言ったとおり、これは看病なんだから)」
自分に言い聞かせてもう一度紫義にふれようとした麻理子は、「水持ってきた!」と半分叫ぶようにして天幕に入ってきた修羅に「わあ! 了解です!」と妙な返事をした。
それから紫義の呼吸が落ち着くまで看病を続けた後、麻理子は割り当てられた天幕に戻っていった。は修羅と並んで紫義の様子を、少し離れたところから見つめている。
「紫義さま、平気かな……」
心細そうな声をだす修羅に、今度はが「大丈夫だよ」と答えた。
「きっと、大丈夫。っていうか紫義さまは病なんかに負けないって」
「……あ、そっか!」
納得したような声を上げる修羅。その声に紫義が小さく反応したので、は人差し指を口元にもっていき、「静かに」と動作で示した。修羅は口に手のひらを当てて数回首を縦に振る。
はその夜、うなされている様子の紫義を見るたび、麻理子を呼びにいこうか、自分が何かできるだろうかとオロオロした。こういう時こそ役立たなければならないのに、と悔しさがこみ上げてくる。
「よし、そのうち医学書でも読んでみよう」
ぽつりと決意を呟く。そして紫義の呼吸が落ち着くことを、そして元気になることをただ神に祈った。今だけは、その異常さに敬遠し続けていた第五の神にさえ縋りたい気持ちだった。困った時のなんとやら、だ。
( 201004 )