私の営む古書の店には、ありがたいことに何人か常連客と呼べる人がいます。たとえば、もう何年も前からよく足を運んでくれている上品なおばあさん。または明朗快活、なんでもハキハキとした口調で話す若奥さん。はたまた少し離れたところで医者をやっている色っぽい美女。そして何を考えているかはわからないけれど、きっと書物が好きでたまらないのだろうと予想できる瓶底 眼鏡のおじさん。この人たちとはそれなりに話をします。特に若奥さんとはよくくだらない話をしては笑うのです。

実はもう一人常連さんがいます。ただ、その人とはあまり話したことはありません。頻繁でも定期的でもなくとも、何故か長い間私の店を訪れてくれる人。もしかしたら、この人が一番古株なのかもしれない。それでもなんだかうまく会話することができなくて今に至ります。

その人はたぶん私よりも少し年下であり、視覚的にとてもきれいな人です。儚げで、もしあの人が花畑に入ったらそのまますうっととけていってしまうんじゃないかってくらいに。本を買ってもらうときにする事務的な会話でしか知りませんが、どちらかというと中性的で透き通る響きのある声をしています。それなりに長い髪の毛を何本もの細い束のようにして結っています。ああいう髪型はどこかの部族の特徴だと思われます。

私はその人の名前も知りません。何をやっている人なのかも、どこで暮らしている人なのかも。しかし、その人が書を好いていることは知っています。少しだけれど、言葉も交わします。それだけで十分だと思います。――思っていたはずでした。

ところで、私はよく危なっかしいと言われます。ぼーっとしていて、目を開けていてもちゃんと起きているんだかわからない、と。そんなことはないと思うのですが、確かにたまに気がつくと同じ場所で同じ姿勢のまま数時間が過ぎているときもあります。そんな性格が祟ったのでしょうか、いや幸いしたと言うべきなのかもしれません。皮肉にも、私の欠点が彼との初対面に繋がることになるのです。

ある夕方、ちょうど書物の整理をしているとき、何百もの本を並べてある棚が私に向かって倒れかかってきたのです。それでもはじめは何が起こったかわからず、書の山が目前に迫ってようやく危機を察知しました。
それでも私にできるのは「ひ」と息をのんで目をつぶることだけです。足は凍り付いたように動きません。ただ来るべき衝撃に備えて、堅く拳を握りました。しかし、そうしているうちに聞こえてきたのは周りで本がドサドサと落ちる音だけ。おかしいと思っておそるおそる目を開けると、目の前に思っていたよりも大きな背中がありました。

「……平気ですか」

間一髪のところで本棚を支えてくれていたのはあの人でした。常連の人なのになかなか話すことができない、彼。私は必死でうなずき、か細く礼を言いました。

「ありがとう、ございます」
「どこかが腐っていたようですね」

とりあえずぐっと力を入れて棚を元の位置に戻しながら、彼は言いました。

「取り替え時といったところでしょう。……このままではまた、倒れます」
「そうですね」

困ったな、と思いながら返事をしました。この本屋は正直儲かってはいません。生活をしていくのに精一杯なのです。しかし私はいったんその不安を忘れ、彼に向きなおりました。

「本当にありがとうございました。あの、お礼を……あ、うちのものをいくつかもらってくれませんか?」
「それはありがたい話ですが。いいのですか?」
「はい。お好きなものを。もし何かこういうものがいいという希望があれば、なにかしらおすすめすることもできますが」

今までで一番長く続いている会話です。先ほどの恐怖はどこへやら、私は気持ちが高揚してくるのを感じました。対する彼は私の言葉を聞き、視線を棚へやって、少し何か考えていました。

「では……」

それからまた顔をこちらへ向け、微笑みます。私はその表情を見て、理由もわからないまま胸を高鳴らせました。

「あなたが好きなものを、お願いします」

これが、私と彼とのおよそ初対面。このあと私は、やっと彼の名前を知りました。
"紫義"
不思議な響きのある名前です。しかし、とてもよく似合っています。名は体を表すとはよく言いますが、この場合は彼にはこの名しかないし、この名には彼しかいないといった感じです。名前を教えてもらってから、私は「紫義さん」と呼びかけることを覚えました。そしてうれしいことに、紫義さんも私を「」と呼ぶようになりました。

「紫義さん、お久しぶりです」
「ああ、久しぶりですね、。何か変わったことは?」
「見ての通り、相変わらずです」
「そのようですね」

一年近くたてば、そんなふうに自然に会話できるようにもなりました。ちなみに紫義さんは仕事の関係でよく遠くへ行くのだそうで、その直前に店に来て、あいた時間に読むためのものを買っていくのだそうです。

紫義さんの仕事。何かはわかりませんし、無駄に干渉することはないと思っています。しかしそこには、きっと何かがあると考えています。話をするようになってから感じたのですが、紫義さんはいつもどこか引いている人のようです。一線を引いて、それ以上は決して近づいてこない人。むしろ、確立した己をもっていて、誰も近づけない人。
話しているときにたまに壁を感じて悲しくなりますが、わがままは言えません。会話できるだけでもうれしいのですから、私は何も追わずに、ただ彼との会話を楽しみました。

私と紫義さんは、なんだか、妙に気が合いました。読書を好むもの同士波長があったのかもしれません。本の趣味が似ているとかそういうことはないのですが、彼が好きな分野について納得できたし、あちらもそのようすでした。はじめの頃は全くそんなことはなかったのに、無駄話なんかもしたりして、まるで友人になれたようなそんな気にさえなれました。紫義さんと話すのはとても楽しい。お互いに冗談を言うわけでもないのですが、そういう楽しさではないのです。話すということ自体が楽しい。これを気が合うと言わずして、いったい何を気が合うというのでしょう? 向こうも私と話すことは退屈ではないらしく、たまには茶を飲んだりして、時間を過ごすこともありました。


「はい?」
「あなたは何も聞いてきませんね」

ふとした時そんなふうに言われて、私は首を傾げるしかありませんでした。彼の言いたいことがよくつかめなかったのです。それから彼が続けて、

「僕のことを変だとは思わないのですか」

そう聞いてきたときは少し驚きました。彼にしてはふみこんできたな、と思って。確かにおかしいな、と思うことはあります。よく怪我をしていることや、兵士らしき格好をした人が紫義さんを探しに来たこと。何より雰囲気やたち振る舞いが、一般人のそれとは違っていました。

「この店にはそういう、変わった人がいっぱい来ます」

変な人も、沢山いればそれが普通になるのでしょう。と、やや決めつけの入った意見を述べて紫義さんを見やります。すると彼はなんだか苦い……あきれたような、苦笑を浮かべていました。

「なるほど。だから君も変わっているのですね」

私はきょとんとしました。

「変わってますか?」
「ええ。ここでは普通なのかもしれませんが」

まるでここが変人の集まる異空間みたいな言われようだ。
そういえば紫義さんのなかでこの店はどんな場所なのだろう。私はふとそう思った。好きなものがたくさんあるところ? ならば、店自体も好いてくれている?

「好きですか?」
「え?」

前後の文脈を無視した質問に、紫義さんは聞き返してきました。私は反省して、言い直します。

「この店、好きですか?」
「……そっちですか」
「そっちとは?」
「いえ、こちらの話です」

紫義さんは一つ間をおくと、

「好きですよ」

そういって微笑みました。その瞬間、私は自分の全身を回る血の速度が速まった気がしました。

「……ありがとうございます」

それからしばらくして、私は紫義さんの異変に気づきました。なんだか、私を見る目がすこし変わったのです。たとえいつものように堂々とした姿勢で、薄く笑みを浮かべていたとしても、瞳には困ったような、理解できないと言いたげなような、なんともいえない感情の入り交じっているのです。そしてそれで私を見るのです。いったいなんだろう、と思いましたが、よけいな干渉はできるだけしないという立場を貫いている私は、特に尋ねることはしませんでした。

紫義さんの名を知ったあの日のあとで何とかお金を工面して新しく買い換えた棚も、もう元々店の一部だったように馴染んでしまってくる頃、私は身の回りの様々なものの移り変わりを強く感じていました。それでも、私は一歩も前進していなければ後退もしていない気がします。

というのも、ある日また棚が何かの拍子にぐらりと揺れて、私をつぶそうと傾いてきたとき、やはり私ができたのは小さく悲鳴を漏らして目をつぶることだったからです。
そしてうれしいことに、紫義さんもこの部分では変わっていませんでした。

「少しは、自分で逃げようとかしたらどうです?」

またも助けてくれたのは彼だったのです。ただし、今度は私の腕を引いて逃がすという形でした。前回とは違って、棚が紫義さんの力で支えられる範囲を超えていたのでしょう。棚は崩れるように倒れ、書物は散乱しましたが、私は怪我を負うことを免れました。

「あ、どうも……助かりました」
「以前にもこんなことがありましたね。今度は棚が書の重量に耐えきれなかったようです」

淡々と現状を分析したあと、紫義さんは言いました。

「しかし、どうして僕がいるときに限って棚が倒れるのでしょう」
「……棚が紫義さんのこと大好きなんじゃないですか?」
「は?」
「なんて、冗談ですよ」

思ったより真剣な声がかえってきたので、少し慌てて取り繕いました。しかし彼はなにやら真面目な顔でなにかを検討している様子です。

「紫義さん?」
「……、か」

紫義さんはぼそりとなにか呟きましたが、私に聞き取ることはできませんでした。そのあと彼は、なんだか心ここにあらずといった様子で帰っていきました。そしてしばらく、姿を見せなくなりました。

今までは長くて二ヶ月だった彼の遠出。その二ヶ月を越え、半年が過ぎました。私は柄にもなくずっとそわそわしていました。だれか人が来れば、紫義さんが来たんじゃないかと期待をしながら確認するのですが、彼ではないとわかるたびに少しばかり落ち込みます。もしかしたら紫義さんは二度とこの店に来ないんじゃないだろうか。そう考えると、うまく呼吸できなくなり、胸が痛くなりました。好きな読書にも全く集中できません。

半年の間に、私は気づきました。自分はどうしようもなく紫義さんに会いたいのだと。
では、何故?

「(そっか……)」

好きなのです。たぶん。
私は初めて彼の存在に気づいた時から今までの経過を思い出していました。今思えばちゃんと知り合う前からわずかに気になる存在だった。名を知って、話をするようになって。彼と話す時間はとても楽しかった。屋内でいつも本ばかり読んでいる私にとって、とても彩りのある人。彼がいるだけで、雑然とした空間が鮮やかにまとまる。いつのまにか、惹かれていたのです。

具体的に、どこに魅了されたのだろうと考えかけましたがやめました。恋愛はこれこれこういう理由があって、と始まるものもありますが、何の事情もなしに誰かに恋をしてしまうことも全然稀ではないのです。そう、本で読みました。

紫義さんに会いたい。
そう思って、すごして、また一ヶ月が終わりました。久しぶりに、本当に久しぶりに現れた彼を見て私は一瞬泣き出しそうになりました。

「紫義さん……」
「久しぶりですね、。何か変わったことは?」

とっさに答えられませんでした。だって、変わっていないと思っていた私自身が、変わっていたのです。それに気づいてしまったのですから。しかし私は本当のことを言いませんでした。

「こちらは、特に何も。紫義さんの方はどうでしたか?」

紫義さんは驚いたような顔をしました。それはそうです。この流れで私が紫義さんに質問を返したのは、これが初めてだったのです。

「僕の方は……相変わらずですよ」

慎重に、言葉を選んでいる様子でした。私は彼の言葉を聞いて、微笑みます。

「それはよかった」

心からの言葉でした。紫義さんがまた来てくれて、よかった。紫義さんが無事で、よかった。変わりなさそうで、よかった。

よかった。


それから彼は半年の空間を埋めるように、いつもよりも頻繁に訪れました。私は彼の顔を見るたびに新たな喜びを感じて口元をゆるめました。こんな気持ちは初めてでした。


そして、気がつけば初めてお互いの名を知ってから、二年が過ぎようとしていました。もとより私よりも高かった紫義さんの身長はさらに伸びています。二年とは、長い。しかし私にとっては短く感じる期間でした。だから、彼が妙な提案をしてきたとき、私にはそれがひどく突然のもののように思えたのです。

は、外にはでないのですか?」
「外?」
「ええ。散歩とか」
「買い出しには出ますけど、それ以外はほとんどないです」
「なら気分転換に出ませんか」
「……今?」
「今です」

何か意図があるのかと思い、疑わしげに彼をみましたが、紫義さん自身も自分が何を思ってそう言いだしたのかよくわかっていないようでした。

「何故です?」
「特に理由はありません……気まぐれです」

その言葉に嘘はなさそうでした。そこで、私も気まぐれに彼の提案に乗ることにしたのです。

外の空気は新鮮で、ぐっと体を伸ばすと生まれ変われるような心地がします。しかしあの雑然とした本屋になれている私は、こうも視界が広いと、不安を感じてしまうのです。だからあまり外には出ないのですが。

「不安ですか」
「……いえ」

驚いて、つい否定してしまいました。彼は正確に私の心の内を読んでいます。やはり頭のいい人だと思いました。
紫義さんはどこか面白そうにしていました。そんな彼を見て、変わったなぁと、しみじみします。二年の歳月。あの日をきっかけに、じわじわと、距離を縮めてきたように思います。ただ、間違いなく壁は存在する。どうしても越えられない一線が。それは私が彼のことをまだよく知らないということが原因なのでしょうが、逆に私が彼を知らないからこそ、彼も必要以上に構えずにふるまえるのではないかとも思えます。

「無理をしなくてもいいですよ」

今日の彼はどこか機嫌がいいようです。私がまじまじと紫義さんの顔を見上げると、彼は首を傾げて「どうかしましたか」と尋ねてきました。

「いえ、なにも。ところで、どこへ向かっているのです?」
「そうですね……どこにしましょうか」

決めてなかったのですか。私はがくりと傾きました。

「では、見通しのいいところにでも行きしょうか」
「……」
「広いところは苦手ですか」

紫義さんは楽しそうです。私は、むっとして、嘘をつきました。

「そんなことはありません。大好きです」

そんなことを言ってしまったものですから、しばらく後には紫義さんの言葉通り見通しのいいところについてしまいました。歩きながら紫義さんと話すのは、楽しかったのですが、自分の言葉を後悔しました。

そこからは遠くの山々が、そして川が見下ろせました。崖の上のようなところで、空が大きく見えます。ちょうど夕方だったので、山と山の間に太陽が沈みかけているのも観察することができました。
しかし落ち着かない。このような大きなものを眺めるのは、いつもひたすら小さな字を追っている私の目には厳しい仕事です。空恐ろしさすら感じてしまうのです。

きゅっと唇をかみ、うつむきました。そんな私に紫義さんは気づいた様子でした。

「苦手ならそういえばよかったのですよ」
「……」
「まったく……、帰りましょうか」

どこか気遣うような言葉の響きに、私は首を振りました。

「こういうのに慣れていないだけです。でも紫義さんと外に行くのは、楽しいので、帰りたくないです」

数秒の沈黙の後、隣に立っていた紫義さんが私の肩に手を伸ばし、ぐっと引き寄せました。自然と、彼にだきよせられる形になります。広かった世界が、また閉塞したものになって、温かさを近くに感じて、私は本能で落ち着きました。落ち着く反面、この状況に戸惑いました。

「紫義さん? 何、いったい、な」
「何なのでしょうね」

かぶせてくるようにして声を発する紫義さん。

「本当に、何なのでしょう」

降ってくるのは、困っているような声。
いつの間にか後頭部に回されていた手が、私の髪をすきました。それから少しだけ体を離して、紫義さんは私を見ました。

「僕には何においても優先すべき存在がいます。あの方のためになることなら、僕は手段を選びません。いくらでも残忍になれるし、非道を働くことに罪悪感は全くありません」

それが紫義さんの価値観。紫義さんにとっての正しさ。私はそう解釈しました。よく、わかりません。わからないうちは、それについて何も言うべきではありません。私は耳を傾けることに徹しました。

「本当の僕と、あの本屋にいる僕は、きっと別人です。ひいては、君の前にいる時の僕もきっと僕とは別の人間なのでしょう」

彼が何を言いたいのかさっぱりわかりません。たぶん紫義さんもしっかり把握しているわけではないのではないかと思います。私はじっと紫義さんの目を見返しました。

「紫義さんは……私は、紫義さんについて沢山知っているわけではありませんが、それでも、紫義さんは己をもった強い人だと思っています」
「己を持った……」
「はい。常々そんな印象を受けていました。きっとその根元には、「あの方」という人が深く関わっているのでしょうね」

その人に、少しだけ興味が芽生えました。いったいどんな人なのでしょう。紫義さんが何においても優先する人。全く想像ができません。

「いつか本で読みました。偽りの人格も、その人の一部であると。たとえ私の店に来て、そして私と親しくなったのがあなたの造った「紫義さん」なのだとしても、それは紛れもなく紫義さんの一部です。つまり、私は確かにあなたと接していたのです」

だから、と私は続けました。

「だから私は「紫義さん」が大好きですよ」

言い終わらないうちに頬に手を添えられて、気がつけば私は紫義さんによって少し上を向かされていました。とても近い位置に彼の顔があることに気づいて、反射的に目をつむると、遅れてやってきた唇の感覚がより直接的に響きました。知らないうちに紫義さんに捕まれていた右手首から、きっと震えが伝わってしまったでしょう。また、頬にあった手は頭の後ろに回されています。驚いて身を引こうとしても、彼の手がそれを許してくれません。

きっとまたいろいろなものが変わるのでしょう。この気まぐれの外出によって。

そんな予感が脳裏をよぎります。
それを見送りながら、私は観念して体の力を抜きました。




時が移ろう、人も移ろう





(201004)