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彼の名前を呼んで欲しい。
ゾルディック家にメイドとして雇って頂いている私は、今は二階にある一本の廊下を掃除しておりました。
私が鼻歌を歌う余裕もなく必死に壁を拭いているところに、ふとキルア様がいらっしゃいました。そういえばもうお夕食の時間はとっくに過ぎています。 「……どうかいたしましたか? キルア様」 するとキルア様はじっと私を見つめたまま、おっしゃります。
「ってイル兄に似てるよな」 思わず黙って考え込んでしまいました。彼、イルミ様のお姿を思い出しては首を傾げるしかありません。似てはいない、と思います。しかしキルア様はさもそう思っていらっしゃるかのように続けなさいました。 「うん。長い髪とかデフォで無表情なところとか、似てね?」
確かに、髪の毛の長さは近いものがあります。しかし表情は――どうでしょうか。実際に私は無表情なことが多いのですが、それでもイルミ様のそれとは何かが違います。
「手、止まってるけどいいの?」とキルア様に指摘していただいたのをきっかけに、やっともう一度壁拭きを再開します。
しかしながら彼はまだじっと私を見ていらっしゃる、そんな気配がしました。きっと、さっきの返事を待っていらっしゃるのでしょう。
「えーっと……私とイルミ様は、似ても似つかないと思います」 私が力を込めて断言すると、キルア様は少し不満げな顔をなさいました。いや、実際に目にしたわけではありませんが、そんな気配がしたのです。
「私は無表情で何も考えていませんけれど、イルミ様は水面下で深いお考えを巡らせてらっしゃいます」 そんなお言葉に私は些か驚きました。
「そうでしょうか」
さっきとはまるで反対のやりとりです。私はクス、と軽く笑んで壁から雑巾を離しました。
「やっぱお前、兄貴とは違うや」
視線を上げると、キルア様のお顔がありました。そこには、特にこれといった表情は浮かんでいません。悲しいとも嫌だとも、表情には出ていないのです。
「あっ! でも声が似てるよな!」 それもまた考えたことも無い事柄でありました。私は怪訝な顔をしてキルア様の方をうかがいます。今回、キルア様は笑顔を浮かべておりました。 「なあ、"キルア"とか"キル"って言ってみてよ。絶対似てると思うからさぁ」
そこで分かってしまいました。この方は、最初からこれを狙っていて、イルミ様の話題を私に持ちかけたです。目の前にいる少年は、本当に少年らしい笑顔を浮かべていますが、しかしその実、その表情にはどこかうそ臭さが漂っていま
した。 「キルア様、困ります」 その声は掠れていたと思います。私の声を最後に広がる静寂。しーん、という音が聞こえてきそうでした。そんな中でも、私が申しました、「困ります」の余韻だけがまだこの場にとどまっているように も思いました。 「――やっぱり、バレたか」 長い沈黙の後にそう呟いたキルア様は、寂しそうな目をなさっておりました。しかし彼は直ぐ下を向いてしまい、その目は彼の前髪に隠れて見えなくなってしまいました。 勿論、彼を呼び捨てに出来たら、親しくなれたらとは思わないことはありません。しかし、許されるのは「思うこと」までなのです。私の中には、メイドとしてのある種のケジメがありました。言い換えると、メイドとしての信条がありました。それらは主人を呼び捨てにすることを許しません。 「……ごめんなさい」
私に出来るのは、心から謝罪することだけです。 「あーあ、上手くやって名前呼んでもらおうと思ったのにな。失敗した。でも次はもっといい作戦考えてくるから!」 何の前触れもなく急に顔を上げ、おっしゃるだけおっしゃって背を向けなり、そしてキルア様は駆け去ってしまいました。 「次の作戦があるんですか……」
私はその場で一人、苦笑をもらします。
私は祈りました。 早く誰かに、彼の名前を呼んで欲しい。
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