これほどの疲労を感じたのは、ハンター試験のトリックタワーをクリアした時以来だ。
視界はたまに目の前にいる人の顔を認知できないほどに霞み、腕にも足にも力が入らない。
試しの門を開けた後に多少の休憩は取ったものの、まさに焼け石の水。効果はない。
そんな状態のまま、はゴン達とキルアとの再会を果たすために敷地内を黙々と歩いていた。
「本当に大丈夫なのか?」
「うん。……平気だって」
気がかりそうに言うクラピカに答える声にも疲労は滲んでいた。
しかしクラピカは、彼女のかたくなな様子に「何を言っても無駄だ」と判断したらしい。
「――そうか」
そう言って前を向く。
としては、もともと自分のせいで出発が遅れたのだからこれ以上他の三人の足止めをするわけにはいかない、そんな気持ちでいっぱいだった。
三週間以上お世話になった守衛たちの宿舎を出発する前に、ゴンはを気遣ってもう少し休むことを提案したのだが、
それを断ったのはその気持ちがあったためだ。
「(ふらふらするけど、歩くことはできるし)」
歩けるのならば歩こう。なるべく三人に心配をかけないよう、足取りをしっかりさせなければ。
またもぼやけてきた視界を元に戻すために自分の頬を叩く。
その後深呼吸をして自分に喝を入れる彼女の前で、レオリオはゴンに耳打ちをした。
「あいつ、意外と頑固だよな」
「だね。オレもだけど」
「だな」
うんうん、と頷きあう二人。クラピカはそんな二人の会話に小声で加わった。
「しかし、大丈夫なのか? 明らかに疲労している」
「本人が大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫だよ」
「そうか?」
「そうだよ、大丈夫。……それよりもは、オレたちに気を使われたくないって思ってるよ」
だから気にするのはやめよう、というゴン。クラピカとレオリオは顔を見合わせた。
四人の行き先に、一つの人影が立ちはだかっているのが見えたのは、まさにこの時だ。
その人影との距離が数メートルになったあたりで、彼らは足を止めた。ゴンが尋ねる。
「君、だれ?」
「出て行きなさい」
答えの代わりに発せられたのは冷たい声。その声をの耳はやっとのことで拾って、彼女は僅かに顔を上げた。
見れば、そこにいるのは自分と同じ位の年頃の女の子だった。
燕尾服をまとって、棒を手に持ち、感情のうかがえない目で四人を見つめている。その女の子は続けた。
「あなた達がいる場所は私有地よ。断り無く立ち入ることはまかり通らない」
「ちゃんと電話したよ。それに四人とも試しの門から入ってきた」
対してゴンがなんの後ろめたさも感じさせないはっきりとした口調で言う。
だが彼女の返答はそっけないものだった。
「執事室が入庭を許可した訳ではないでしょう?」
「じゃあ、どうしたら許可が貰えるの? 電話して友達だって言っても繋いでくれなかったんだ」
「さあ。許可した前例がないから、わからないわ」
「じゃあ結局無断で入ってくるしかないじゃん」
「そういやそうね」
二人が一歩も引かない遣り取りをしている間、視界の端に薄っすらと、なにか見覚えのあるものをとらえた。
薄く靄のかかったかのように見える目をこすりこすり、柵の向こうにある大木の根元を見ると。
「……あれ、キルアのスケボー?」
いつも彼が肌身離さず持っていた、緑色を基調としたスケートボードが立てかけてあった。
思わず呟いたに、燕尾服の彼女が頷く。
「そうよ」
「あの、なんで、あそこにあれがあるんですか?」
「頂いたから」
「キルアに?」
「ええ」
は言葉を失った。もしも彼女が言っていることが本当ならば、彼女はキルアにとって特別な存在であることに違いはない。
キルアがあのスケートボードを大事にしていたことは、ハンター試験でわかっていた。
驚いて、ゾルディック家の使用人と思われる彼女を見つめるの隣で、レオリオは低く言った。
「信じられねェな」
「信じてもらわなくても結構よ。――とにかく」
彼女は手に持っていた棒で足元に一本の線を引く。
「大目に見るのはここまで。この線を越えたら、その瞬間に実力をもって排除する」
棒を流れるように自然な動作で構える女の子。彼女の言葉を最後に、沈黙が落ちた。
他の道を通るという手段はない。試しの門とミケの配置から想像するに、
恐らくゾルディック家の敷地内は正しい順序を踏んでいかないと本邸に辿り着くことはできない仕様になっているだろうから。
どうにかして彼女の通せんぼを抜けて、この道を行くしかない。四人の中でほぼ結論が固まってきた頃合に、ゴンが一歩踏み出した。
「ここはオレに任せて」
そう言って返事も聞かずに足を進めていく。レオリオにクラピカ、そしてはその様子を、固唾を呑んで見守った。やがてゴンの足が、彼女が引いた境界線を越えた。あ、と声を漏らす暇もない。振るった棒がゴンを突き、彼の体は易々と吹っ飛ばされてしまう。
は彼を受け止めようと右足を前へと踏み出した。
しかしその時にようやく思い出す。
自分がかなりの疲労に支配されていることに。
結果から言うと、は飛ばされてきたゴンの体を受けることが出来た。
だが、疲れによって力が出ない体では、勿論足の踏ん張りがきくはずもない。
彼女はゴンごと吹っ飛ばされるような形になって、ゴンの下敷きとして地面を転がった。
「!?」
後頭部を襲う激しい痛みのせいか、ゴンの声がくぐもって聞こえる。
目の前が異常にぶれて見える。焦点が合っていないのだ。
「(打ち所が悪かったんだな……ださい)」
自分でそう思った瞬間、の意識は闇に沈んだ。
- - - - - - - - - -
夢を見た。その夢の中で、は「逃げないと」という思いに駆られて、暗闇の中に光る長い一本道を走っていた。
何から逃げているのかはわからない。追うものの影も見当たらない。それでも彼女は逃げ続けていた。
もしかしたら彼女を追うものは目に見えないものだったかもしれない。例えば、根本的なものである、恐怖自身とか。
彼女は必死だった。それこそ、走ることをやめたら命を落すとでも言わんばかりに無我夢中で走っていた。
頬を伝うものが汗なのか涙なのかもわからない。ふとそんなに並んで走る人が現れた。
「、どうしてそんなに走ってるの?」
ゴン?
どうしたことか、言葉が出ない。夢の中であることに気付いていない彼女は何度も声を出そうとしたが無理だった。
声が出せないことを分かっているのか、が答えないことを全く気にしていないらしいゴン。
いつの間にか彼はを追い越している。
「どうせならもっと楽しそうに走りなよ!」
言い残してゴンの姿はかき消えた。
代わりに現れたのは、スケートボードに乗っているキルアだ。
「お前は、なにから逃げてるんだよ?」
なにって。
本当に不思議そうな目で見るキルアに、は二つの意味で、答えることが出来ない。
彼女がもたついている間にキルアは消え、次に必死の形相で走るレオリオが現れた。
「死んでもハンターになったるんじゃー!」
いや、もうなってるじゃん。
そんなつっこみも声を出して入れることが出来ない。これではまるで舌をなくしてしまったかのようだ。
レオリオは叫び声を上げながら、困惑している彼女に目もくれず、走っていく。
それを追うようにして出てきたのはクラピカだった。
「左だ!」
え? 左?
彼は訳が分からない一言を発した後、満足そうな顔をした。は困る。
真意がわからないことにも困るし、どう反応すればいいのか分からずに困る。困惑するばかりだ。
そんな彼女に、いつの間に戻ってきていたのか、ゴンが後ろから声をかける。
「右!」
「私も右だ」
「オレは左だ」
気が付けばレオリオもその場にいた。
右だとか左だとか指示を飛ばされるは混乱して、走りながら頭を抱える。
大体クラピカ、さっきは自信満々に左だと言っていたじゃないか。
というかここは一本道だ。知らない間に「なにかから逃げている」という意識は消えていた。恐怖も消えていた。
不思議だな、と思ったその時、は突然夢から覚めた。
「……ここは」
「目が覚めたか」
降ってきた声は聞き覚えのないものだ。
次いで感じるのは、首元に突きつけられたものの冷たさ。そして張り詰めた雰囲気。
逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと息をした。上から「賢明な判断だな」という声が聞こえてきたが、それに返すことはない。
現状把握に努めるために、は必死で頭を回転させた。
――今分かるのは、自分がソファに寝かされた姿勢でいることと、そのソファの後ろに立つ背広の男が槍を自分の喉元に突きつけていること。
声が聞こえることから、近くにゴン達がいるのであろうが、無闇に首を動かすことが出来ないので確認はとれない。
しかしどの位かは知らないが睡眠をとったために、聴力が回復している。
状況整理のために努力をして自分を落ち着けて、耳に全神経を集中させた。辛うじて耳が拾ったのは、コインをはじく音と、それを取る音。
「どっちだ?」
「……私は右だ」
「オレは左」
「左だ。これで最後の一人だな。それでは、次」
そうしてまたコインをはじく音がする。所謂「どーっちだ?」というものをやっているのだろうか。
この張り詰めた空気からはあまり想像出来ないが、自分が人質になっているのだと仮定すると納得は出来た。
まだ詳しいことは良くわかっていないが、大人しくしておくことに決める。
は自分に刃物を突きつけている人物を観察して、恐らくここは執事室というやつだな、と予測した。
「お見事」
そんな声が聞こえてきたところでの喉元にあった刃は消えた。
彼女が横になっているソファの傍に立つ男は代わりに拍手をしはじめた。
彼だけではない、四方から複数、手を叩く音が音が聞こえる。はしばらく躊躇っていたが、思い切って体を起こした。
ほんの少しふらついたけれどこれは疲労によるものというよりかはずっと寝そべっていたからだと言うほうが正しかった。
「、起きてたの?」
「大丈夫か?」
三人はが寝ていたところから少し離れた場所にあるソファに座っていた。ゴンは顔中に傷を負っている。
が意識を失ってから後、あの使用人の女の子にやられたのだろうか。
部屋全体を見ると、あの女の子もいることがわかった。ここに案内してくれたのは彼女なのか? よくわからない。
とりあえず話を聞かないことには把握出来ないと悟ったは、一番の疑問を口にした。
「……ここは、執事室? で合ってますか?」
「ええ そうです」
ゴン達の正面に座る執事がゆったりとした口調で言う。
「無礼なことをして済みませんでした」、と頭を下げる彼を筆頭にに刃物を突きつけていた執事もお辞儀をした。
つい慌てて会釈を返す。
なんだかな。慣れない。そう思って頭に手をやったところで鈍い痛みがやってきた。
「痛っ」
そこには包帯が巻かれている。
そういえば、彼女が気を失ったのは蓄積された疲労も原因の一つではあったが、起因は頭を打ったことにあった。
「ごめん、オレ」
彼女の方に駆け寄ってきて、ゴンは申し訳なさそうに謝る。はとんでもない、と首を振った。
「ううん、ゴンは謝ることはないよ。わたしが馬鹿だっただけだから」
本当に、彼が謝ることはないのだ。
がゴンとぶつかって倒れてしまったのは、
自分が疲れていることを忘れていた彼女が彼を受け止めようとつい体を動かしてしまったのが原因なのだから。
しかしゴンは、がそう説明しても納得の色を見せない。そっと彼女の頭の包帯に触れて、尋ねる。
「……痛い?」
「ぜ、全然」
声が裏返りそうになってしまった。
「しまった」と彼女は後悔したが、時は既に遅し。
「ごめん」
「謝ることはないよ」
「でもごめん」
「……」
助けを求めるようにクラピカやレオリオを見たが、彼らは笑って首を振る。
「大丈夫だよ」
結局、彼女はありきたりな言葉しか返せなかった。
遠くからキルアの声が聞こえてきた。ゴンとがそれに反応したのは、ほぼ同時。
二人は若干俯けていた顔をパッとあげて、声が聞こえてきたほうを見た。足音が、近づいてくる。
音を立てて開いた扉の向こうには、見慣れた銀髪があった。彼もゴンと同様に顔に怪我を負っている。
キルアは中に入ってきて、ゴン達を見つけて顔を明るくすると、直ぐに駆け寄ってきた。