「単刀直入に言おう」
サナダの声は、高くはないが低すぎもしない、耳障りのよい静かなものだ。
はこの声が嫌いではなかった。
「おれは君の家と付き合いの長い、なんでも屋家業の長男だ」
さらりと発せられた言葉には一度我が耳を疑いかけた。と付き合いの長い同業者の存在なんて初めて聞いたのだ。
一体これはどういうことなのか、そもそも彼は本当の事を言っているのか、と悩みだす彼女。
しかしそれらの考えは次のサナダの言葉に一掃された。
「君の母から伝言を預かっている」
「……え?」
今度こそ彼女は自分の耳が正常に機能しているのかを完璧に疑った。
予想斜め上、なんてものではない。死角を突いて敵が現れてくるような不意打ちに、一瞬だけ息をすることも忘れた。
何故ここで、この人の口から、母が出てくる?
なんとか冷静を取り戻そうとしているのだが、は狼狽を隠しきれない。
「伝言、ですか? ……母から、って……」
「もしも家業を継ぐ気があるのなら、八月十五日、おれとともに「仕事」をするようにと」
サナダは「仕事」という単語に少々のアクセントをつけて、それ以外はやはりあっさりと言う。
もちろんもう一度驚きという名の打撃をくらって目をぱちくりとさせる。ここまでくると、もう何も考えられない。
先程からずっと驚いてばかりだ。空っぽになった頭の中で、彼女はぼんやりとそう思った。
いつまでたっても口を開かないに、サナダは彼女がパニックに陥っているのだろうと思ったのだろう。
彼女のこんがらがった思考の糸を解するために、ゆっくりと言葉を選び始める。
「おれは先日、君の母親に依頼を受けた。天空闘技場へ行って君を待ち伏せするようにとな。そしてもう継ぐのか継がないのかを選択させろと」
何故、が天空闘技場に行くことを、彼女の母親は知っていたのか。それはすぐにわかった。
の母は元情報屋で、そういったことを調べるのは得意中の得意なのだ。
が天空闘技場に向かったことを知った母は、そこで勘付いたのかもしれない。
彼女が蹴りをつけようとしていることに。もしそうでなくても、どちらにせよ――
彼女はふうっと息を吐いて、つまさきに目を落とした。
――やはり母には到底敵いそうにもない。
「……八月十五日。でしたっけ」
落ち着きを取り戻し、大分状況が飲み込めてきたは日程を確認した。
「そうだ。その日はおれの家との家に同じ場所から全く同じ依頼がきている。君の母親はそれを利用したんだ」
なるほど、と呟いて、彼女はまだ雑然としている頭の中を整理する。
「(とりあえず、約五ヶ月間の猶予をもらった、ということになるのかな)」
それまでに身の振り方をどうするのか決めなければならない。
もともとはもっと早く、出来ればこれから一週間以内に決着をつけようと考えていたは少し拍子抜けした。
「把握しました。わざわざ、ありがとうございます」
「いや。おれから言いたいことは以上だ、これで失礼させてもらう」
サナダは無表情で淡々と別れの言葉を告げる。なんの未練もなく直ぐに背中をむけ、早歩きで去っていった。
いや、早歩きというよりも、あの速さが彼の普通なのだろう。なんとなくそんな感じがする。
この数分間でわかったことは、があと五ヶ月間は天空闘技場にいられるということ、
そしてサナダが仕事に真面目な同僚であった、ということだ。
彼の姿も消えたことだし、もうこの場に用はない。もその場から動き、エレベータに乗ろうと歩き始めた。
が、その動作はすぐにとめられることになる。
考え事をして注意力散漫になっていた彼女は誰かにぶつかって立ち止まった。
「あ、ご、ごめんなさい」
「うん、いいよ」
さっと血の気のひく音が聞こえた気がした。
「え?」
上から降りてきた声は、物凄く聞覚えのある声だったのだ。冷や汗がにじみ出てくる。
頭の中の考えもすべて散ってしまい、今はもう声の主のことしか考えられなくなってしまった。
彼女が頭に思い浮かべている人物は、それ程に影響力のある人だったから。
「(まさか、気のせいだよね。というか気のせいであって欲しい。――気のせいでありますように)」
彼女はそう強く念じ、意を決してぶつかった相手の顔を見る。
次に、ほっと胸を撫で下ろした。
その人の顔に見覚えは全くなかった。声が似ているだけで、外見は全然違う。
もういちど安堵の溜息をつく。がぶつかってしまった彼は、好青年という言葉のよく似合う、赤髪の若い男性だった。
どこか鋭い雰囲気があるが、それも彼の洒落た雰囲気を修飾している。
要は十人中九人は確実に「カッコイイ」と形容するだろう容姿をもつ人物だった。
人違いだとわかった安心しきったがもう一度笑顔で謝ってその人の横を通り抜けようとすると、どうしたことか彼は右腕を上げてそれを阻止した。
彼女は訝しげに男を見上げる。彼はにっこりと笑ってこう言った。
「ボクのこと、忘れちゃったのかい?」
「は、はい?」
まるで知り合いであるかのような口調。そして台詞の中身。
「ハンター試験で会っただろう? 軽くだけど、一応戦闘もしたじゃないか」
「戦闘……ハンター試験って」
まさか。
が言葉を失って息を詰めると、男はいっそう笑みを深めた。
その顔にはうっすらと見覚えがある気が、した。
「ボクだよ。久しぶりだねェ」
外見は違うが、しかし、この声。この口調。この雰囲気。
彼の口から「ハンター試験」という言葉が出てきたことも含めると、
が最初彼の声を聞いたときに頭に思い浮かべた人物である可能性がかなり高い。
いまだにまさかと思いつつ、恐る恐る、彼女はあの名前を口にした。
「ヒ、ヒソカ?」
「そうそう。よかった、忘れられたのかと思った。あ、君の名前はで合ってるよね?」
「合ってます、合ってますけど……ええええ!?」
彼女は今更飛び退った。その様子を、ヒソカ(仮)は楽しそうに眺めている。
「で、ででも、あれ? わたしの記憶違いですか? ヒソカはもっとこう不気味な感じで」
「失礼だな。ボクはあの格好が一番お気に入りなんだよ」
は必死になって脳内シュミレートをした。あのヒソカが、髪を赤く染めてストレートにし、メイクを落として普通の服を着ると……
「(こうなるのか)」
よくよく考えてみると、何故か納得がいった。確かに彼はもともと綺麗な顔立ちをしていた気がする。
正直な話、彼の顔を真正面からじっくりと見たことはないのだが。
「納得したようだね。じゃあお茶でも飲みに行こうか」
「あ、あー、ちょっと遠慮をしたいです……」
「君の試合は恐らくしばらく経ってからだろう? ちょっと位いいじゃないか」
「……」
「ね。くくく」
ヒソカは喉で笑う。
その笑い声を聞いて、ようやく完全に彼が本物だということが信じられた。
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なかなか上品でいい雰囲気のカフェに、見た目のよい男と同席する。
そんなシチュエーションを素直に喜べないのは、相手が自分にとって複雑な人だからだろうか。
は紅茶に角砂糖を入れてかき混ぜる。
一口飲んでカップを置き、目の前に座る男を真っ直ぐに見つめた。
「それで、どうしてあなたがここに?」
「君たちの先回りをしてたんだ」
「……なんのために?」
ヒソカは答えない。ちろりと口の端を舐めて、笑みを深める。その仕草にぞっとする。ああそうだ、彼はこんな感じな人だった。
およそ一ヶ月ぶりだろうか、意外と出会ってから日は浅いと言うのに、初めて彼を目にした日が遠く昔のことのように感じられた。
ヒソカは「くく」といつもの調子で笑った後、口を開く。
「今日の試合、見ていたよ。あれは70階レベルのものじゃなかったね」
「そうですね、サナダさんは凄い人でした」
「武器が使えたらもっと凄い戦いになっていただろう」
ヒソカは彼の注文したブラックコーヒーをすする。なんだか、妙に絵になっている。雑誌に載っていそうなワンシーンだ。
彼はカップを手に持ったまま、目をに向ける。
「彼――サナダだっけ? とても興味深いな。彼は何者なんだい?」
相手が相手だということで、ここで馬鹿正直に「私の同僚だそうです」なんていう事はしなかった。
かといって上手い返し言葉も見つからない。は答えを濁すことを選択した。
「わかりません」
「言いたくないならいいけどね」
少しの間も置かれずに返ってきた返答に苦笑いをした。お見通しのようだ。は少し気力をなくす。そして一方で疑問を感じていた。
ヒソカが彼女を茶に誘ったのは何か聞きたい事があってのことだ、と彼女は推測していて、
その聞きたい事とは恐らくサナダについてのことだろうとも予想していたのだ。
それに反して「言いたくないならいい」という言葉。
目的は何か別にあるのか、それともお得意の奇術で口を割らせてくるのだろうか。
話術の戦いに持ち込まれたら、勝てる気がしない。いっそのこと馬鹿正直に聞いてしまうのも手かと思い立つ。
かれこれ数分間の沈黙の後、彼女は直球勝負に出た。
「ところで、わたしをお茶に誘ったのはなんの意図があってのことですか?」
「いやにはっきりと聞くんだね。君ってそういうキャラだったっけ?」
「誘導尋問とかできないんです、わたし」
「確かに出来なさそうだ」
肯定されて少しショックを受けたが、なるべく気にしないようにした。
それて結局ヒソカは言ってくれるのか、くれないのか。彼は間を持たせるようにもう一度コーヒーをすすってから切り出した。
「君が200階まで来た時に一度手合わせ願いたいんだ」
「――は? 私と?」
「そう。君と」
突然すぎる提案と、その内容に目を数回瞬いた。意外だ。
サナダといいヒソカといい、どうしてこうもとんでもない魔球を投げてくるのだろう。
会話のキャッチボールがなりたたなくなってしまうじゃないか。
「いや、まだ遠慮しときます」
「なんでだい?」
「わたしと戦っても全く楽しくないと思いますから」
ヒソカは目を細める。
「動けないですから、わたし。サンドバッグにならなれますけど、あなたの趣味じゃないでしょう?」
「……あの時も思ったけど、何かありそうだね」
はほどよい熱さになっていた紅茶を一気に飲んで、立ち上がった。
まだこのカフェを訪れてから30分も経っていないのだが、「これ以上一緒にいるのは危険だ
」と第六感が警鐘を鳴らしていたのだ。
ヒソカの本当の用件とやらも聞けたことだし、彼も引き止めたりはしないだろう。
このままだとヒソカのコーヒーは彼女の奢りということになるが、構わない。
伝票をとってそのままヒソカの前を通り過ぎようとした時、引き止めたりはしないだろうという予想に反して彼の声が彼女の歩みを止めた。
「んー……ねえ、一つ提案があるんだけど」
彼女は聞かなかったことにして再び歩き始めたが、またも直ぐに阻まれた。
気がついたら彼も席を立っていて、の左腕を掴んでいたのだ。
彼はなにかをたくらんでいそうな、悪い笑みを浮かべていた。嫌な予感しかしない。
彼の言う「提案」とやらはろくでもなさそうだ。
の額に嫌な汗が滲む。
「鍛えてあげようか。ボクが、キミを」
――やはり、妙な提案だ。
「ど、どうして」
「ゴンと戦る時が来るまで、暇だしね。たまには自分の手で果実を育ててみるのもいいかと思ったんだよ」
果実? と彼女は首を傾げるが、追求はしなかった。
頭の中でヒソカの提案がくるくると旋回している。
彼は怖い。恐ろしい。しかし、その実力は確かだ。明らかによりも格上。
そんな人物から教えをいただけると言うのは、大きな一歩を踏み出すきっかけとなりえるだろう。強くなるために。
だとしたら、是非とも鍛えていただきたいところだが、正直恐ろしい。
恐怖心と強くなりたいという願望の天秤がおおきくぶれた。それはやがてある一方に傾いていく。
完全に結論が出たとき、そして決意ができた時、彼女は緊張をしながら声を上げた。
「お願いします」
まるでこの答えが返ってくると前々からわかっていたかのように、ヒソカはくつくつと笑った後、いいよ、と了承の言葉を発した。
「じゃあまずは200階まで自分の力で登っておいで。それから始めよう」
「はい」
「それと」
ぱっとヒソカが視界から消えた。気がつけば、彼はもとの席に腰を下ろしている。
そして彼女の手に有ったはずの伝票を握っていた。
「女の子に奢らせるわけにはいかないからね。ボクが飲み終わるまで少し待っていてくれよ」
唖然とするの前で優雅にコーヒーを飲むヒソカ。
しばらく立ち尽くしていた彼女に、「座ったら?」と声をかけた。
「ここに来る前はゾルディックの屋敷に行ってたんだろう? せっかくだから何があったか話してくれないかい?」
それから、最終的にカフェに留まった時間は一時間を越えた。
彼の合いの手に乗って気がつけば全く違う話をしていたり、逆に彼から不思議な話を聞かされたり。
いつの間にかは楽しんでいた。
ようやくカフェの前で別れて、60階に向かうエレベーターに乗ったとき、
思い切りヒソカのペースに乗せられていたことに気がついて、彼女は溜息をついた。