トランプが空気を裂く。その高くて残酷な音を聞いたとき、はようやくリアルを実感する事が出来た。
それは明らかに遅すぎることだったけれど、出来なかったよりかは幾分かマシである。
人の体を傷つけ、血を流すことを目的として飛び交うトランプ。
それを跳躍することによってすんでのところで避ける。
そうしてバランスを立て直しつつ、は振り返った。
そこには嫌な笑みを顔に貼り付けた、奇術師が一人。
「てめえ、なにしやがる!」
「……試験官ごっこ」
上半身裸の男の怒鳴り声に答えた後、ヒソカは笑みを深めてトランプをきった。
ついに彼が動いてしまった。既に、この周りにはいくつもの死体が転がっている。
は恐怖におののく。それでも、身を守るために服の下に隠していた武器を取った。
“殺られるまえに、殺れ”
その言葉はの脳内をぐるぐると旋回するだけで、彼女の中には落ちてこなかった。
――出来ない。人殺しなんて出来ない。
しかしそうしなければ、確実にわたしは死ぬのだ。
そう、死ぬしかない。
つつ、と汗がこめかみを伝う。今までにかいた中でも一番気持ちの悪い汗だ。
自分の荒い息、それと心臓の音しか聞こえない。
それでもヒソカのトランプによって次々に切り捨てられていく人々の断末魔が、鼓動の隙間を縫うようにしての耳へ届いた。
暑かった。暑くて仕方がなかった。それは運動による体内での燃焼のせいだけじゃない。
この場を埋め尽くしている血の香りが、恐怖が、の血を煮えたぎらせていた。
「(落ち着け)」
爪が食い込むほど強く拳を握る。
「(落ち着け……)」
はっとした。
気が付けば、もう自身の体の自由がまったく利かない状態になっていたのだ。
小指の先すら動かない。これは、まるで金縛り。の体が、まるで彼女のものでなくなってしまったかのようだ。
一番恐れていたことが起こってしまった。
「残りは……君たち4人だけね」
地獄絵図。折り重なる死体の群れの中心で、ヒソカはニイッと口角を吊り上げた。
の他に、彼女の周りには3人の生存者がいた。
一人は金髪の中性的な青年。
一人は上半身に何も来ていない、つい先程ヒソカに向けて怒鳴り声を上げた青年。
そしてのこりのもう一人が、自分たちにしか聞こえない程度の声で言った。
「……オレが合図したら、バラバラに逃げろ」
逃げろ? 逃げろだって?
はぎりっと奥歯を噛み締める。こっちは逃げようにも、逃げられないのだ。
どうにか、はやく、対抗策を練らなければいけない。少しでも体が動けば。
それかヒソカが少しでもこの殺気を緩めれば、どうにか逃げることくらいは……そこまで考えて、自分自身に憤怒した。
どちらも実現し得ない仮定でしかない。
こんなことを考えていたって、活路を見出すことなど出来はしない。
自分は成長しなければいけないのだ、そのために母はこの試験を受けさせた――
「今だ!!」
3人は動いた。しかしは動けない。
バラバラの方向に逃げていく最中、3人の青年達は足を動かそうともしないを驚きの目で見た。
「おや。いい判断だ、と思ったけど……君は逃げないのかい?」
違う、逃げないのではなく逃げられないのだ。叫びたい。
そんな衝動が急速に彼女の全身を駆け巡った。脳の信号が、の声帯に向かって直接「叫べ!」と指令を下している。
それなのに、彼女は声を出すことも出来なかった。
目の前のヒソカという存在に押しつぶされて。
視界がにじんだ。とことん情けない自分に、心の底では飽き飽きしていた。
「ああ、違うんだね。逃げないんじゃなくて逃げられないのか。ねえ、ぼくが怖い?」
前にも、同じ質問をされた。
不思議なことに、彼女はその時の記憶をまったく思い出せないでいた。
「愚問だったようだね。とにかく、君は不合格だ さよなら」
急に時間の動きが鈍くなったように感じられた。
トランプを投げようと腕を振り下ろすヒソカの動きが、スローモーションに見える。
――死ぬのかな、本当に。
諦めともつかないその感情に、は一瞬冷静になった。
それが彼女の本来の思考力を取り戻したのだ。
「(そうだった。わたしには、念があるんだ。防御だけなら動かなくてもできる!)」
とっさに”堅”でガードする。ヒソカがほんの少しだけ目を大きく開いたのが、わかった。
彼の顔によぎるのは驚きと、小さな興奮。
「(右手……動く。左手も、両足も。声も出る!) っ!!」
驚きは人に隙を作る。ヒソカの殺気がゆるんだ一瞬の隙に殺気の拘束から解放されたは、鎖鎌の鎖をヒソカに向けて放った。
しかしながら、それが見事に命中するほど世の中はの都合にいいように回ってはいないのだ。
無駄のない動きで、ヒソカは彼女の一撃を避けた。
その後の後方に現れた新しい気配を察知する。
彼女もその存在に気が付いて、目を見張った。少し前に逃げたはずの、半裸の男だ。
彼は何事か叫びながら走り、ヒソカに棒を振りかぶった。ヒソカはそれも余裕をもってかわす。
彼の手が男の首に伸びた、その時。ヒソカの頭を何かが思い切り殴打した。
自分を救った人物の姿を認識して、半裸の男は驚きの声を上げる。
「……ゴン!?」
どうやらこの半裸の男、ゴンと知り合いらしい。
そうだ、そこにいたのは釣竿を持ったゴンだった。ヒソカを直撃したのは、竿に付いた重石。
「面白い武器を使うんだね、ぼうや ちょっと見せてよ」
ゴンの攻撃をまともに食らったはずのヒソカだが、まったくダメージをうけていない。
と同じく堅を使ったのかもしれないが、また体の自由を奪われていたにそれを確認する余裕はなかった。
ヒソカは草を踏んで歩き、ゴンのほうへと歩を進める。
「待てよ、てめえの相手はオレだ!」
そこへもう一度攻撃を仕掛ける男だったが、ヒソカに、かわされる前に顔面を殴られて吹っ飛んだ。
ヒソカの意識は完全にゴンの方を向いている。動けるようになったは、吹っ飛ばされた彼に駆け寄った。
痙攣を起こしているが、大丈夫、思い切り殴られただけだ。生きている。
ほっと溜息をつく。
ゴンの様子を見ようと振り返って、息を詰めた。彼の首にはヒソカの手があった。
――しかし、その手に力は入っていないようだ。
ヒソカはじっくりとゴンの顔を見つめた後、急に笑顔になって言った。
「……うん、君も合格! いいハンターになりなよ」
そういえば、「試験官ごっこ」と言っていたような気がする。
は張り詰めていた気を一気に緩ませて、放心状態に陥っていた。
ここら一帯を取り巻いていたヒソカの気持ちの悪い殺気とオーラは、もう微塵もその存在を感じさせなかった。
はその場にへたり込みそうになってしまったが、そうもしていられない。
暫くぼんやりとしていた後に、はっとして顔を上げると、ヒソカはと彼女の傍に倒れている男のほうへと足を踏み出していた。
はヒソカから男を庇うようにして前に出る。そして武器を構える。
「ああ、君は不合格だと思ったけど…のぞみ、あるかもね?」
ヒソカとの距離の差が数メートルになった時、彼がオーラを湛えた足を振り上げるのを視界の端で何とか捕らえた。
「(蹴り。来る……右脇腹)」
見えていた。
分かっていたのに、は動けなかった。
体が動かなかった訳じゃない。ヒソカの殺気はすでに収まっていたのだから。
それは、ヒソカとの力の差。
はまともに蹴りを食らい、数十メートル飛ばされた。
あまりの痛みに、声にならない悲鳴をあげた。
口内であふれ出した大量の唾を地面に吐く。息がまともに出来ない。
短い呼吸をなんとか繰り返すことによって命を繋ぎとめる。
目の前に光がとんで、頭がぐらぐらとしていた。
ようやくそれなりの平静を取り戻した時、自分を蹴った張本人をうかがって、は目を丸くした。
彼はなんと、男を抱え上げていた。そしてゴンに向かって、一人で第二次試験会場へいけるかと尋ねる。ゴンはこくりと頷いた。
「君は……ぼくが連れて行ってあげようか?」
対しては首を横に振りまくる。
「完全に嫌われてしまったようだね◆」
自分を蹴り飛ばした人間を、その数秒後好きになっている訳がないじゃないか。
そういう特殊な嗜好の持ち主もいるかもしれないけれど、少なくとも自分はそうじゃない。は内心げんなりとした。
ヒソカは、迷いのない足取りで森の中へと入っていく。霧に溶けたようにも見えた。
「ゴン!?」
また聞覚えのない声だ。
がゆるゆるとそちらをうかがうと、金髪の青年が現れた。
「これは一体……」
「クラピカ、無事だったんだ。よかった」
「ああ、私は平気だ。レオリオは」
「ヒソカに連れて行かれた」
「ヒソカに!?」
クラピカは霧の中、地面に座り込んでいるに目を向けた。
はっとして、彼女に歩み寄る。
「大丈夫か!?」
「……だ、大丈夫です」
「右の脇腹。押さえているじゃないか、ヒソカにやられたんだろう」
「大丈夫です」
はかたくなな様子でそう言う。彼女の脳内は、悔しさでいっぱいだった。
なぜなら、蹴られた箇所の直ぐに痛みがひいていったからだ。
つまりヒソカはそれだけ上手い蹴り方をした。それだけ、力をコントロールして、蹴った。それ程の余裕があったということだ。
その事実が、を酷く悔しがらせていた。
「何故私達が逃げたとき、一緒に逃げなかったんだ?」
「……」
逃げられなかったからとは言えない。
むっつりと黙り込んだに、クラピカは首を傾げた。
「……そうだ! 、レオリオのこと庇ってくれてありがとうね」
ヒソカが去った直ぐ後は地面に膝をついていたゴンはもう回復したらしく、のもとへと駆け寄ってきた。
その顔にはいつも通りの明るい笑顔が浮かんでいる。
は、不思議だ、と思った。この少年を見ていると、応援したくなる。
こんなタイミングでこのようなことを思うのは本当に場違いな気がするけれど、直感的にそう思ってしまったのだから仕方がない。